今日も深爪

爪を切るのが絶望的に下手な大学生です

論理的であるということ。

「論理的に」何かをする、ということが苦手だ。

 

 今に始まったことではないし、前々から他人に散々指摘されてきたことでもあるから、別に今さらどうってことでもないし、正直、今さら論理的な思考方法を身に付けようとも思わない。(と言いつつ、論理的な思考ができない自分が時々すごく嫌にもなるのだけど)

 

 ただ、今日、その「論理的思考」と「私自身」の関係性について、曖昧ではあるけれど、考えたことがあるので、ここに残しておくことにする。

 

  1. 私自身の性格について

    まず、先にも書いたように私は「論理的に」何かをするのが、苦手だ。「論理的」ということに関して、そもそも「論理的」というのがどのようなことなのかも分かっていないけれど、自分と対照的な場所にある概念だというのは何となくわかる。何となく。
     ここで、自分の思考や行動、言動について振り返ってみると、最近、「頭じゃなくて心を使いたい」と頻繁に考えている。とにかく頭を使って何かを考える、というよりは、最初に何かを心で感じて、それに付随して頭を働かせる、というのが、ここ18年と10ヶ月の私だった。そして現在進行形。

  2.  論理的であるということと“翻訳する”という作業

     周りの言葉、音、景色は、常に体の中に流れ込んできていて、それを言語化する、となったとき、私は「情報を伝達する」ことを目的としてではなく「どうにかして表現する」ことを目的として切り取る傾向にある。だからいつも何だかはっきりしないものを抱えていて、それを自分が納得のいく形に落とし込めたとき、それは「私の言葉」になるのだけど、これを、いざ誰かに伝えるとなったとき、さらにそれを「翻訳」する必要がある。少しでも広く、べたっと伝わるように。だから、自分の考えていることを「論理的」に表現するには、

    ①自分の内面を言語化する (非言語→言語 の翻訳

    ②言語化したものを少しでも広く伝わるようにする(言語→言語 の翻訳

    ③②で平たくしたものを再構築する(言語→言語 の翻訳

    という具合に3つのステップを踏む必要があって、①ができれば②は容易くできるのだけど、③のハードルがとてつもなく高い。と言いつつ、考えてみれば、実は②でも論理性が必要とされていて、そこでもつまずくことが多いな、と(脈略のない話をしがち)。

  3. 結局何が言いたいかというと

 翻訳する作業に疲れた。今、大学の授業では基本的に英語だけを学んでいて、そこでどうしても自分の日本語で出来上がった思考を英語に翻訳する必要があって、そこに重きを置いていると、たとえ日本語から日本語への翻訳だとしても、自分の内面を外の世界に向けて翻訳することをないがしろにしてしまいそうになる(というか既にしている)。
 これは自分が話し手である場合だけじゃなく、聞き手としている場合でも、同じようにそれとは逆のプロセスを踏まなくてはいけなくて、今度は目の前の「論理的なもの」をいかに噛み砕いて感覚的に理解できるかということになるのだけど、それもそれで莫大なエネルギーを使う行為で、本当に疲れてしまう。
 

 正直、今まで論理的思考力がほぼ皆無でも何とか生きてこれたし、必要なときは何となくそれっぽいことをすればいいんだろうし、むしろ自分のこういう感覚を無くしたら、自分を自分たらしめるものが無くなってしまう気がするので、ある種の「思考停止」なのかもしれないけれど、翻訳することをちょっと休憩させてほしい。

 

 ロジカルシンキングだけが全て、みたいな世界はこっちから願い下げ。

 

 (結局は、無理して様々な人に何か伝えようとしなくても、伝わる人にだけ、伝えたい人にだけ伝わればいいし、分かってくれる人だけ分かってくれればいいっかー、っていう話です)